中小企業流の「人的資本経営」とは
中小企業にこそ「人的資本経営」が求められる
パナソニックの創業者である松下幸之助は、「企業は人なり」「松下電器(パナソニック旧社名)は人を作るところでございます。併せて商品も作っております。」という言葉を残しています。
企業成長の根幹は人であり、人材の成長に注力することが未来を担保するという経営哲学を現しています。
この考え方が昨今「人的資本経営」という言葉で、世界的に重要視されてきています。
日本政府もまずは上場企業に対して、人への投資を積極的に行い、人的資本にかかわる幅広い情報を公表することを求めています。
この情報開示については、現状、中小企業においては一部を除き開示義務はありません。
ただ、財務資本・設備資本などを十分に有していない中小企業こそ、“人材”の潜在能力を発揮させ、事業環境変化への適応力を高める「人的資本経営」は、これからの人口減少社会・VUCAワールドの時代においては不可欠なものです。
「人的資本経営」概要
中小企業になぜ「人的資本経営」が求められるのかを具体的に解説する前に、「人的資本経営」の概要を確認しましょう。
「人的資本経営」の実施事項は大きく二つとなります。
一つは、自社の企業理念やパーパス(存在意義)の具現化を果たすとともに、市場要望・競合動向・技術革新など将来の事業環境変化に対応するための「経営戦略」。
この「経営戦略」を“絵に描いた餅”に終わらせず確実に推進していくために、必要な人材調達・計画的育成・適正配置などの「人材戦略」を精度高く策定し、推進することにあります。
尚、「人材戦略」は“あるべき人材像”と“現在の人材像”のギャップを定量的・具体的に表し、推進プランをまとめる内容となります。
そして、この「人材戦略」推進を通じて、
- 理念・ビジョン・方針に対する共感度を高め、自発的に会社の成長・発展に尽くそうという想いである「エンゲージメント」。
- 経営戦略を推進し、企業競争力を高めるために必要な「スキル」。
- 環境変化の激しい時代に対応していくため、過去の常識・固定観念に縛られず柔軟な発想をもって仕事にあたる「マインドセット」。
- 上下間、部門・部署間、社員間のコミュニケーションを促進させて、協働関係を築く「リレーションシップ」。
社員・組織の四つの要素向上をはかります。
二点目が、人的資本状況を顧客、社員、入社希望者、協力会社などのビジネスパートナー、金融機関などの各種ステークホルダーに開示することです。
人の成長に尽力し、活躍する仕組みを構築していることを具体的かつ継続的に発信することで、顧客、ビジネスパートナー、金融機関から優先的な取引関係を築く信頼が得られていきます。
入社希望者には、応募~入社の大きな動機付け要素となります。
また、所属する社員にも、人材への取り組みが“見える化”することでプラスの刺激を与えることになります。
中小企業に「人的資本経営」が必要な3つの理由
会社の未来を保証する「先行管理」のエンジン
私共は、仕事柄さまざまな中小企業の経営戦略・経営計画を見てきましたが、そのなかで、このようなことが多々あります。
計画書に書かれている、環境変化を踏まえた成功要因の抽出、事業ドメイン(領域)選定、戦略案は客観的に見て的を射ています。この通り進めていれば、業績は向上しているはずです。
しかし、現実の業績は横ばいです。場合によっては下がっている企業もあります。
なぜ、このような状況になるのか?
答えはいたってシンプルです。実行していないからです。
数十年前に、著名な経営学者が“組織は戦略に従う”という考え方を提唱しました。端的にいえば「企業は戦略方針に沿って組織を編成し、動かしていくべきである」ということです。
組織は手段ですので、理論上はその通りであるといえます。
ただ、その後、企業実態を調査した別の経営学者が「いくら素晴らしい経営戦略や経営計画を立てたとしても、結局はその企業の組織・社員の力量に見合ったことしかやり切れていない」。
“戦略は組織に従う”ということが現実であると述べています。
中小企業においては、大手と比べてよりこの言葉が当てはまるのではないでしょうか。
中小企業と大手企業の違いの一つに、競争状況が大きく異なることが挙げられます。
大手は、同期や入社期の近い社員が多く、ポストをめぐる争いが熾烈です。ある意味、放っておいても多くの人が自律的に努力・勉強していきます。
大手企業でも研修を行うことがありますが、受講姿勢が中小企業とは違います。
また、中小企業は基本的に人手不足です。
管理・監督職のポストも、競争どころか、どう考えても適任ではない人にマネジメント職の役割を担ってもらわざるを得ないケースも多々生じます。
余裕のない人員で運営しているため、研修やジョブローテーションなどの機会も思うようにつくれず、スキルが向上しない。属人化が解消しない。技能伝承がなされないまま時間が経過する。
そして、経営陣が時間をかけてまとめた経営戦略・経営計画が実行されず、絵に描いた餅に終わってしまうこととなります。
近年、注目を浴びている経営学のイノベーション理論に「両利きの経営」があげられます。
シンプルにいえば、企業は「深化」と「探索」を同時に進めていく必要があります。例えていえば、器用に右手と左手を同時に動かし、右手で「深化」をはかり、左手で「探索」を進めていく動きを行うことが存続・発展には欠かせません。
具体的にいえば、「深化」とは既存事業(商品)を深掘りして、より顧客にとって価値あるものにしていく。競合と差別化をはかり優位性をつくることに努め続けていくことがあたります。
ただ、この既存事業(商品)深化だけを行っていては、いずれ市場が成熟化していき、競争が激化して利益が得られないジリ貧状態に陥ります。
そこで、既存事業(商品)の深化だけでなく「探索」にも注力する。「探索」とは、視野を広げて新しい事業(商品)の種を見つける活動を行い、これまでとは違う新規分野を模索していくことです。
そして、新規事業(商品)を立ち上げ、試行錯誤しながらも収益があがる事業として、より磨きをかけるべく「深化」をはかる。
一方で、同時にまた新規事業(商品)を「探索」する活動も継続し、有効な種を見出していく。こうした動きを続けていくことが企業の未来を保証していくという考え方です。
この考え方に異論をはさむ人はあまりいないでしょう。
しかしながら、われわれ中小企業においては、左手「探索」が人員・人材能力の面でなかなか進まない。
VUCAワールド・第4次産業革命・急激な人口減少社会を迎えるにあたり、自己変革を進めなければならないものの、結果的に右手「深化」に終始していることが多く見受けられます。
こうした状態を脱却する鍵となるのが「人的資本経営」です。
「経営戦略」と連動した「人事戦略」を立案し、自社特有の風土・社員の心理状態に合わせた形で、定量化した人事課題を推進する。
この「人的資本経営」が経営戦略を現実のものとする組織体制をつくり、未来に対して効果的な先手を講じる先行管理を果たします。
厳しい人材環境下で「採用力」を維持・向上させるには不可欠
人材確保が、中小企業における大きな経営リスクの一つと今後はなっていくでしょう。
周知のとおり、わが国は急激な人口減少を迎えています。
なかでも問題なのが消費の中心であり、有力な働き手である15歳~64歳の生産年齢人口が減少の80~85%を占めていくことにあります。
「労働市場の未来推計」(出典:パーソル総合研究所)によると、2030年では7,073万人の労働者需要に対して、6,429万人の供給しか見込めず、実に644万人の人手不足が発生することが予想されています。
10%近くの需要が満たせなくなるということであり、コロナ禍前の2019年度における人手不足が138万人であったことと比較すると、10年程度で4.6倍の不足という逼迫状況を迎えていきます。
従来でも大手企業と中小企業では、新卒でも中途でも採用における競争力はかなり大きな開きがありました。
ただ今回の人的資本情報の開示が義務付けられることにより、大手や株式公開を検討している企業は、内閣官房が提示している「人的資本可視化指針」や「人材版伊藤レポート」などに準拠した人的資本情報を開示していきます。
そのなかで、自社が人材の成長支援にいかに力を尽くし、人材が活躍できる環境を整備しているかのPRがなされていきます。
また当然、開示義務はないものの意欲ある中小企業は、自発的にさまざまな工夫を施して、独自の人的資本経営に関する情報を公開し、採用力を強化しようとすることでしょう。
結果、「人的資本経営」に消極的で、人材の成長・満足度を高める働きかけを言語化・数値化した情報を公開しない会社は、募集段階でかなり不利な状況になっていくことが想定されます。
社員の「定着」と「潜在能力発揮」を促進させる
損益計算書の費用科目に直接的には記されませんが、離職コストは大きなものです。企業にとって痛手となります。
採用媒体(広告)出稿、求人展示会への出展、初期年収の30%前後を要する人材紹介会社の手数料など、まず外部に支払うコストは離職が生じれば生じるほど増えていきます。
また、数値には明確に現れませんが内部コストも増えます。
各種外部業者との折衝、応募者との面接、各種入社手続き・社内調整など、離職に伴い、採用活動に従事する人事・総務部署の社員の時間は増加します。
若年層が離職した場合、営業、製造などの現場からみれば、せっかく手取り足取り教育を行い、ようやく一人前として仕事ができるようになった段階で辞められると、これほど辛いものはありません。
多忙な中、上位者・先輩社員が時間をやり繰りして、また一から教育を施さなければなりません。
さらに言えば、こうしたことが何回も続くと、新人教育に対するモチベーションは低下し、おざなりの指導・支援になる。
その結果、新人がまた離職していく。。。という悪循環に嵌るケースも生まれてきます。
高い専門技能・マネジメント技能を有した人材が離職すると、さらに痛手は大きくなります。
人材獲得競争に入っている現在において、同等の技能を有した人間をわれわれ中小企業で採用することは困難です。そう簡単に育成できるわけがありません。
結果、離職した人材の代替ができないこととなり、事業機会を失うというコストが発生します。
ただ、離職の外部圧力はさらに高まっています。
テレビCM、WEB広告、直接的なスカウト連絡など、転職支援会社のアプローチは、10年前と比べて圧倒的に増えています。
そして、コロナ禍で物理的・時間的な制約が外されました。
オンラインでの面接が主流となることで、会社を休んで面接に向かうということは減少し、転職活動が容易となりました。場合によっては、一度も訪問することなくオンラインで内定が出されることもある状態です。
総務省の2021年「労働力調査」で、転職希望者は889万人、全労働者の割合でいえば13.4%の労働者が転職を希望しているというデータが出ています。
これも昔と比べて大幅な上昇となっており、転職に対する心理的なハードルが下がっていることを示しています。
この傾向は、ジョブ型雇用の伸展、就社から就職意識の向上、そして企業の終身雇用志向の低下などにより、さらに年々高まっていくことでしょう。
社員が「この会社で働きたい」と思える環境を整備し、一人ひとりの特性に応じた成長支援をはかり、企業も社員もWin-Winな状況をつくりだす「人的資本経営」。
この取り組みが定着をはかる上でも重要となってきます。
採用・定着活動に注力しても、事業拡大のペースに合わせた人材確保は、先に述べたように10%近くの労働需要が満たせなくなる時代を迎えることを考えれば、われわれ中小企業には現実的に厳しいものとなるでしょう。
この点を考慮すると、社員一人ひとりの潜在能力を引き上げて生産性を向上させることが不可欠となります。
経営戦略を具現化するための、個人スキル・マインドセット・モチベーションを強化する働きかけを計画的に推進する。
上下間、部門・部署間、社員間の協働関係を高める働きかけを行い、1+1が2ではなく、3にも4にも10にもなるような相乗効果を発揮する組織状況をつくる。
こうした潜在能力発揮の観点からも「人的資本経営」が求められます。